2008年07月31日

『知覧特攻平和会館(語り部編)』『義烈空挺隊』

      『知覧特攻平和会館(語り部編)』

 ここ数年は京都に行くことが多いが(年2〜3回)、熊本時代はS川と遠征と称してよく鹿児島に行ってた。

 その鹿児島遠征で唯一シリアスだった場所が知覧特攻平和会館だ。写真は準備ができてないので、会館の中でのボランティアのおじいさんの話を中心にアップ。

 会館の中に入ると、すぐに「散華」というタイトル(記憶が正しければ)のどでかい絵がある。大きさとその内容に圧倒される。特攻したゼロ戦機体が炎に包まれてるところへ天使?天女?が来て、パイロットを天国に連れて行くという内容だった。この絵が後々効いてくる。

 中には、ゼロ戦や海の特攻兵器・人間魚雷回天、戦艦大和の音、特攻隊の遺書などが数多く展示されていた。
 ゼロ戦近くで人が集まっていたので近づくと、ボランティアのおじいさんが展示されているゼロ戦の説明をしていた。

「なぜ、このゼロ戦だけが壊されずに残っているかと言うとですね。
 ポツダム宣言受諾後、武装解除命令が出て米兵が来るまでにゼロ戦を破壊しないとひどい目に合わされるって思って、本土決戦用に残してたゼロ戦を自分達で壊してたんですよ。
 でも、このゼロ戦だけは壊せなかった。なんでかと言うとですね。このゼロ戦はB-29に体当たり攻撃をして戻ってきた機体なんですよ。
 B-29は爆撃機ですから高い高度を飛んで、ゼロ戦ではそんなに高く飛べないから攻撃できないんですよ。でもこの時、街(福岡?)はB-29に一方的空襲されて、反撃する方法がなかったんですよ。対空兵器もなくて。
 で、このゼロ戦のパイロットは頭に来てゼロ戦で体当たりするって言い出したんですよ。
 ゼロ戦は、B-29の高度は飛べないけど急上昇すれば届くんですよ。でも急上昇しても、舵利かないし体当たりすればこっちも死ぬのがわかってるんですよ。でも、他に反撃する方法もないし、目の前で空襲で人が死んでいくのに、軍人である自分が何もしないのは我慢できないと言って、ゼロ戦でB-29へ体当たりをしたんです。

 急上昇したゼロ戦はB-29の翼に当たって、B-29を撃墜してしかもこのゼロ戦は無傷で帰ってきたんです。もう基地の中は大騒ぎしました。あのでかいB-29に体当たりして、無傷で帰ってくるなんて奇跡だと。
 それだけじゃないんです。このゼロ戦とパイロットはもう一度、B-29に体当たりをするんです。みんな止めましたよ。せっかく九死に一生を得たんだから、もういいじゃないかと、もう十分だと。
 でもパイロットはまた出撃しました。一回戻れたんだから思い残すことはないと言って。
 すごいのは2回目も無傷で帰ってきたんです。ゼロ戦で体当たりして、B-29を2機撃墜したんです。それがこの機体なんです。

 終戦後、他のゼロ戦が壊される中でどうしてもこのゼロ戦だけは壊せなかった。英雄の機体だから、だから米兵が来てもみんなで必死になって「この機体だけは壊さないでくれ、英雄の機体だから」と説得したんです。
 そしたら、米兵も同じ軍人だからわかってくれて破壊しなくていいって言って保存されて、今ここにあるわけです。」
(ゼロ戦は全長:19.02m、全備重量:2,674kg、上昇限度:6,000mまで7分28秒
 B-29は全長:30.2m、全備重量:61.2t、上昇限度:10,200m)

 急上昇で体当たりって考えられない・・、それで無傷、しかも2回も。2回もやらなくもいいじゃないか・・。

「外に三角兵舎があるんですが、あれは明日特攻で飛び立つ人が前夜あそこで寝るんです。
 湿気が多くて屋根も低くて、最後の夜になるかもしれないのになんであんなとこに寝かすんだと思うでしょうけど、明日出撃する大事なパイロットを空襲で死なせないために、家と思われないあんな建物に隠すんです。
 当時は戦争で死ぬのは当たり前にみたい思われてましたけど、特攻前夜に前夜に大声で泣いた人は、当日はすんなり飛び立つんです。前夜に強がって泣いてない人は当日なかなか飛び立てないんです。結局、当日は故障と言って飛びたてないこともあるんです。みんな怖かったんです。
 
 この知覧から飛び立ったら、開聞岳をぐるっと旋回してから沖縄方面に行くんです。
 開聞岳が見えてる間は、それを目印にして帰れるんです。故障しても帰れるんです。実際、故障してなくても怖くて帰ってきた人がいました。でも誰も咎めなかったそうです。整備班も嘘ついて、本当に故障ですと報告していました。
 開聞岳が見えなくなるところまで飛べばもう戻れません。後は特攻して死ぬだけなんですから。」

 開聞岳(標高924m)、別名薩摩富士とも言われ、S川と後日登るんだが、あの山にはそういう想いがあったのか。
 淡々としゃべるこのおじいさんは、たぶんボランティアだと思うけど、話しぶりから自分だけ生き残ってしまった申し訳ないという感じがあった。そのせいか俺は話を聞いて泣いていた。
 ここに何度か来ているS川とは中を別々に回ったが、俺はぼろぼろ泣いた。涙が止まらなかった。他にも色んな話があって、他の人もほとんど泣いてた。

 その後、施設で興味半分の写真は取れなくなった。館内は撮影禁止だったが、平気で撮ってる奴がいて、おまえさっきの話聞いてたのか?と本気で殴ってやろうかと思った。あの話を聞いて無神経に単なる観光施設と同じように写真を撮る神経が信じられなかった。もしかして外人だったのか?外見は日本人ぽかったが。
 会館の中に入る前に下の像と一緒に記念撮影してた自分が恥ずかしかった。
知覧2.jpg
知覧特攻平和会館にある像(画像はとりさんの空港探索より拝借)

作戦とはいえぬ作戦、犠牲と教訓。

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三角兵舎などの画像は、とりさんの「空港探索」の『知覧特攻平和会館』を参照にして下さい↓
http://1901rjtt-to-roah.blog.so-net.ne.jp/2006-10-09-3
参照Wiki:「特別攻撃隊」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A

関連記事:戦艦長門と兄部艦長
http://costblog2.blog24.fc2.com/blog-entry-622.html
『鹿児島・桜島(桜島まで何マイル?)』
http://cost-off.seesaa.net/article/16818453.html
『なでしこ隊』
http://cost-off.seesaa.net/article/106812060.html
『生まれたときから「妖怪」だった』
http://cost-off.seesaa.net/article/108137202.html



〜〜〜〜〜〜〜〜

      『義烈空挺隊』

 戦争関連をもう一つ。
沖縄はよく本土防衛のための捨石にされたというが、確かにそれは当たってるが、完全に捨石にだったわけではなく、空挺部隊による沖縄作戦が行われている。以下、参考資料より引用。
 
 昭和20年5月24日、沖縄に「特別攻撃隊−義烈空挺隊」を用いた国軍最後の空挺作戦が敢行された。

 突入計画は、「第一期攻撃」として読谷の「北飛行場」・「中飛行場」に対しての航空機による胴体着陸を敢行して、所存の敵飛行機を覆滅するとともに、敵司令部・物資集積所を攻撃する。敵飛行場攻撃後は、「第二期攻撃」として沖縄軍と連絡をとりつつ、果敢なる遊撃戦へと移行する計画であった。

 昭和20年5月24日、諏訪部忠一大尉率いる第3独立飛行隊所属の12機の九七式重爆撃機が陸軍熊本飛行場(健軍飛行場)を出撃した。12機には奥山道郎少佐率いる義烈空挺隊の隊員が乗り込んでいた。
 熊本を発った12機のうち6機が沖縄の北飛行場に強行着陸、さらに2機が中飛行場に着陸したとの報告がなされたが、残りの4機は発動機の不調などにより目的地に辿り着けず途中で帰還している。戦後の戦史でも戦時中のまま「北飛行場に6機、中飛行場に2機突入」の記録が残った。

 他方、アメリカ軍の記録では、義烈空挺隊のうち北飛行場(読谷飛行場)に1機のみ、胴体着陸・挺身攻撃に成功している。この機体は滑走路に胴体着陸した状態の写真や、機体の撤去作業中の動画などが記録映像に残っておりよく知られている。
 飛行中に対空砲を浴びて戦死し機内で突っ伏した状態の搭乗員の写真なども残っている。これらの記録映像から最低1機は確実に突入に成功したと考えられる。アメリカ軍の記録などによると、そのほかの機体は激しい対空砲火により飛行場周辺で撃墜されたとされる。

 胴体着陸に成功した重爆に乗っていた空挺隊員(及び搭乗員)は、少人数ながら予定通りの地上戦闘・破壊活動を行い、飛行場は混乱に包まれた。後のアメリカ軍の調査によると、駐機中であった航空機9機が破壊炎上したほか、30機近くが損傷を受けた。
 また、飛行場にあった航空燃料用のガソリンが炎上し、7万ガロンが焼失した。このように飛行場の機能に一定の打撃を与えることには成功したが、天候不良のため日本軍はこの機会を生かすことができなかった。

 米軍側死傷者は約20名で、日本兵の遺体は69体(墜落などによって死亡した者も含む)が収容された。空挺隊員1名が生存して同年6月12日ごろに島尻南部に到着、日本軍第32軍司令部に戦果を報告しているが、現在もこの人物の氏名は判明していない。

 この作戦の一ヶ月後の6月23日に沖縄守備隊司令官牛島中将が自決し、沖縄戦は組織的抵抗を終えた。沖縄県は、条例でこの日を「慰霊の日」と定め公休日としている。
(またアメリカ軍の沖縄戦終了宣言がなされたのは7月2日、その後も8月まで各地で戦闘は続き、日米両軍の司令官が調印が行われたのは9月7日である。)

〜〜
 敵の占領した飛行場に強行着陸して、できる限り破壊活動するって・・、帰還は計算されていない信じられない作戦だ。
 作戦といえぬ作戦で大いなる犠牲があった、その歴史から学ばなければならないことは多い。

<追加>2010/03/22
陸軍熊本飛行場と現在の自衛隊健軍駐屯地は、
健軍飛行場(旧陸軍熊本飛行場)→旧熊本空港→今は住宅地で、
三菱熊本航空機製作所→現在の自衛隊健軍駐屯地
場所は近い(通路でつながるほど)が同じではない。
参考:とりさんの空港探索2「熊本県・旧熊本空港跡地」
http://airfield-search2.blog.so-net.ne.jp/kumamoto-closed-airport

島唄(歌詞に隠された意味 字幕付き)
http://www.youtube.com/watch?v=uJtEq07O024&feature=related

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参考:Wiki「義号作戦」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%8F%B7%E4%BD%9C%E6%88%A6
特別攻撃隊−義烈空挺隊
http://www.horae.dti.ne.jp/~fuwe1a/newpage46.html

関連記事:2007夏・沖縄旅行[34]コザの街その5ヒストリート
http://cost-off.seesaa.net/article/88167157.html
posted by コスト at 22:33| Comment(4) | TrackBack(0) | コラム・レポ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
通常は零戦が到達できない高度でも、運動エネルギーを位置エネルギーに変換する方法で達することはできますが、それにしても、ねぇ。
空気は薄いので舵は効かなくなるし、上昇すればするほど速度は落ちていくし。高速で移動する相手にぶつけるとなると、相当難しいと思います。
それから、相手の翼を破壊して自機は無傷というのもすごいなぁ。どんな手を使ったんでしょうか??
零戦に詳しい方にちょっと聞いてみます。
Posted by とり at 2008年08月02日 09:21
 おそらく対空火器がないので、B-29は低い高度で飛んでたんだと思います。
 アフガンだかイラクでアメリカのステルス機が低空飛行して、バズーカなどのローテク兵器に撃墜されたのも同じような話でしょうか?
 どっち道前代未聞ですよ、急上昇ぐらいで撃墜できるなら皆やってたでしょうし。
 この語り部おじいさんは整備士か何かで現場にいたという説明だったと思います。
 他にもこの時のパイロットは、戦後も生き残ったという話があったんですが、なにぶんだいぶ前に行ったので、記憶力の限界で思い出せないんですよ。
S川も一緒に聞いたので、今度会った時に覚えてるか聞いてみますよ。
Posted by コスト at 2008年08月02日 10:29
零戦に詳しい方に聞いてきました。
知覧の零戦がどうだったかはわかりませんが、
戦法として、プロペラでB29の尾翼をひっぱたく、というのがあったそうです。

それと、最初は高々度爆撃をしていたB29ですが、その後精密爆撃を目的として、一説には3,000m台程度まで高度を落として爆撃することもあったようですね。コストさん仰るとおり、日本側の対空火器事情も考慮した上でのことでしょうが。
Posted by とり at 2008年08月04日 22:05
>とりさん よくぞ調べてくれました!
ゼロ戦に詳しい人の知り合いもいるんですね、すごいです^^
 なるほど尾翼を引っぱたくという戦法があったんですか!翼に当てたという説明であってたんですね。
 このB-29に急上昇体当たりをしたゼロ戦の話は福岡で、戦後保存のため知覧特攻平和会館に持ち込まれたという説明があったようにも記憶があるんですが、ちょっと自信がなかったので(福岡?)にしています。

 対空火器がないのがバレてから、低空爆撃を始めたというのは僕もTV番組か何かで聞いたので、おそらくそうだと思います。
 確かパイロットは終戦まで生き残ったと聞いたので、やはり対戦末期の話なので対空火器がないのはばれてたと思います。
Posted by コスト at 2008年08月05日 11:33
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